作者:藤原道綱母(ふぢわらのみちつなのはは)
「黒=原文」・「青=現代語訳」
解説・品詞分解はこちら蜻蛉日記『鷹を放つ』解説・品詞分解
つくづくと思ひつづくることは、なほいかで心として死にもしにしがなと思ふよりほかのこともなきを、
つくづくと思い続けることは、やはりなんとかして思い通りに死にたいと思う以外ほかのこともないが、
ただこの一人ある人を思ふにぞ、いと悲しき。
ただこの一人の息子(道綱)を思うと、たいそう悲しい。
人となして、後ろ安からむ妻などにあづけてこそ死にもこころやすからむとは思ひしか、
一人前にして、あとあと安心できるような妻などに(息子を)預けて、(そうした上で)死んでも安心だろうとは思ったけれど、
いかなる心地してさすらへむずらむと思ふに、なほいと死にがたし。
(私が死んだ後、息子は)どのような気持ちで世の中をさまようだろうと思うと、やはりとても死にきれない。
「いかがはせむ。かたちを変へて、世を思ひ離るやと試みむ。」と語らへば、
「どうしようか。出家して、夫婦仲を思い切れるか試してみようか。」と話すと、
まだ深くもあらぬなれど、いみじうさくりもよよと泣きて、
(道綱は)まだ深くも考えない歳であるけれども、ひどくしゃっくりあげておいおいと泣いて、
「さなりたまはば、まろも法師になりてこそあらめ。
「そのようにおなりになるならば、私も法師になってしまおう。
何せむにかは、世にもまじらはむ。」とて、
何のために、この世の中に交わって(生きて)いこうか。」と(道綱は)言って、
いみじくよよと泣けば、われもえせきあへねど、いみじさに、
ひどくおいおいと泣くので、私も涙をこらえられないけれども、あまりも真剣なので、
戯れに言ひなさむとて、「さて鷹飼はではいかがしたまはむずる。」と言ひたれば、
冗談に言い紛らわそうと思って、「ところで、(出家すると鷹を飼えなくなるが、)鷹を飼わないでどうなさるのか。」と言ったところ、
やをら立ち走りて、し据(す)ゑたる鷹を握り放ちつ。
(道綱は)静かに立って走って行き、(止まり木に)止まらせていた鷹をつかんで放してしまった。
見る人も涙せきあへず、まして、日暮らし難し。心地におぼゆるやう、
見ている女房も涙をこらえられず、まして、(私は)一日中暮らすこともできないほど悲しい。心に思われたことは、
争へば 思ひにわぶる 天雲(あまぐも)に まづそる鷹ぞ 悲しかりける
争うので、尼になろうかとつらく思っていると、道綱も(頭を剃って)法師になろうとして鷹を放した。その鷹が空に飛び去るのを見ると、(道綱の真剣な思いが分かって)悲しいことよ。
とぞ。
と詠んだ。
日暮るるほどに、文見えたり。天下のそらごとならむと思へば、「ただいま心地悪しくて。」とて、遣りつ。
日が暮れるころに、(夫から)手紙が来た。(手紙に書かれている内容は)まったくのうそだろうと思うので、「今は気分が悪いので。」と言って、(手紙を届けに来た夫の使いの者を)返した。